調査結果
8.心の健康
心の健康に関する項目群について
ここではまず、この調査で使われた心の健康に関する質問について簡単に説明したい。
心の健康に関する項目は、今回HADS(ハッズ)という、身体系疾患を有している患者における精神神経系疾患のスクリーニング(ふるいわけ)に用いられる指標、ポジティブな変化、SOC(エスオーシー)、自己肯定感、心理学的ウェルビーイング(「人格的成長」「人生における目的」「積極的な他者関係」の3つ)のそれぞれを用意した(表8-1)。
心の健康の種類 | 内容 |
---|---|
HADS(ハッズ) | 患者のうつ障害・不安障害 |
ポジティブな変化 | 病気になってからの人生の見方や考え方の変化 |
SOC(エスオーシー) | ストレス対処がうまくいく生活・人生の見方考え方 |
自己肯定感 | 自己肯定の感覚。過去受容・自信・自律など |
心理学的ウェルビーイング | 人生全般にわたってのポジティブな心理状態 |
今回とりあげた心の健康に関する項目群の特徴
今回とりあげた心に関する項目は、聞きなれない心理的「概念」を捉えており、慎重に解釈をするためにも、はじめに、(1)質問の仕方、(2)5つの指標から心の健康をとらえることのユニークさ、(3)これらの回答結果の判断の仕方、の3点について順に説明する。
(1)質問の仕方について
これら5つは、全く異なる心の健康状態を捉えるための項目であるが、いずれも「多項目尺度」と呼ばれている方法で回答者に質問を行っている。心の中の様相を捉えるために、例えば、自己肯定感の中にある「自律」という要素を知りたいとき、「あなたは心の中で自律していますか?」という1項目の質問でとらえることほぼ不可能、あるいは大変に雑と言える。このようなときには、様々な角度からいくつもの項目を考え出して質問を行い(自律では6項目の質問)、その合計点を用いてどの程度「自律」の程度があるのかを評価することになる。このような質問方式は、計量心理学と呼ばれる学問で研究されており、今回のFutures Japan調査での質問においても忠実に計量心理学に則ってより正確に質問し測るようにしている。
(2)5つの指標から心の健康をとらえるユニークさ
HADS、SOC、ポジティブな変化、自己肯定感、心理学的ウェルビーイングの、それぞれを今回のFutures Japan調査で採用したことで、大変にユニークな調査になったといえる。その理由として大きく3つがある。ひとつは、HADSという精神疾患の状態を捉える医学的な指標(11)にくわえて、SOC、ポジティブな変化、自己肯定感、心理学的ウェルビーイングという、医学的異常・正常の問題とは離れた、私たちが「生きる」という、良い・悪いを超えた人生の状況をみる項目を用意した点である。ふたつめは、「生きる」ということを多角的に捉えている点である。つまり、生きることは現在の問題でもありながら、これまでや今後の「経験」の問題でもある。SOCやポジティブな変化を捉えることは、「状態」ではなく、どのように生きてきた/生きている/生きていくのかを捉えることになる点である。3つめは、これらを同時に質問している点である。これまでの調査では、ほとんどがHADSなどの精神疾患に関係するものや、生き生きとしているか、というような活力に関する項目に限られていた。Futures Japanの調査では、これら5つを同時に聞くことでより深みのある「生きる」様相を捉えることが可能になった。
(3)回答結果の判断の仕方について
これら5つの指標は先述の「多項目尺度」と呼ばれる方法で質問されていることから、得点が算出される。これは、「あなたは1日にどのくらいタバコを吸っていますか」という質問に対して「1.吸わない、2.禁煙した、3.20本未満、4.20本以上」という項目で聞かれる場合に、「1.吸わない」が○○%、という形で計算される例とは異なり、より精密な得点分布という形(平均値と全体のバラツキ)で計算される。これは入試模擬試験の成績で、平均点の場合は偏差値が50、平均点から1標準偏差(12)はなれると、+の場合は偏差値60、-の場合は偏差値40と表現される場合と同じである。このとき一般に60は良く40は悪いかもしれないが、人によって捉え方は様々で、偏差値50でもよく頑張ったと評価する人もいる。タバコの例では20本未満と以上とで大きく分けられており、なぜ20本なのかはっきりしない。これは簡便に回答できるように区切っているためで、結果はわかりやすいものの、それ以上のことはわからない。しかし、平均点や標準偏差という数字で見た場合、どのように対象の方々が分布しているのかをより精密に把握することができる。
精密に把握したのちに、HADSで行われているような「スクリーニング」という方法で、何点以上だとその後に疾患にかかる危険性が高い、と判断することができる場合もある。ただし、SOC、ポジティブな変化、自己肯定感、心理学的ウェルビーイングはそのような判断の指標が与えられていない。そのため、全国調査や一般市民の調査の結果と比較して、全体的に今回の対象者の分布はどのあたりに位置づくのかを把握することで、評価することになる。また、なにより全体の分布が分かっていることから、他の項目との関係の深さを見ることが容易となっている。たとえば、差別・偏見の程度が強くなればなるほど、自己肯定感の値が低くなっていく、というような形で、程度同士の関係を詳らかにすることができる点で大変に有益といえる。
不安障害およびうつ病の傾向について
HADS(Hospital Anxiety and Depression Scale)という不安障害傾向とうつ病傾向を判定する質問紙を用いた。まず、不安障害傾向については、「不安障害なし」385人(42.2%、HADS不安項目回答者全913人あたりの%、以下同様)、「不安障害の疑い」223人(24.4)「不安障害の可能性が高い」305人(33.4%)であった。次に、うつ病傾向について、「うつ病の傾向なし」は410人(45.1%、HADSうつ病項目回答者909人あたりの%、以下同様)、「うつ病の疑い」236人(26.0%)、「うつ病の可能性が高い」263人(28.9%)であった。
なお、一般女性会社員に対して実施した調査結果(13)によると、不安障害は、「なし」50人(80.6%)、「疑い」6人(9.7%)、「可能性が高い」6人(9.7%)で、うつ病は、「なし」47人(75.8%)、「疑い」13人(21.0%)、「可能性が高い」2人(3.2%)であった。
年代別の不安障害、うつの判定結果の分布を図8-1に示す。不安障害は年齢が低いほど高い傾向にあるが、うつは、30~40代において比較的高い傾向にあった。
HIV陽性が判明してから、今に至るまでのポジティブあるいはネガティブな変化
HIV陽性が判明して以降現在に至るまでに、以下の11の項目について、大きく「ポジティブに変わった」「変わらない」「ネガティブに変わった」の3つに分けてその割合を比較した。それぞれの項目について、「ネガティブに変わった」「ポジティブに変わった」の割合を図8-2に示す。
主な結果は、「精神的強さ」は、「弱くなった」375人(41.1%、回答者全体の%、以下同様)、強くなった281人(30.8%)、「人や社会のために役立ちたい思い」は、「弱くなった」212人(23.2%)、「強くなった」390人(42.7%)、「一日一日を過ごすことに対して」は、「どうでもよくなった」246人(26.9%)、「大切に感じるようになった」318人(34.8%)、「信頼できる友人知人の数」は、「減った」225人(24.6%)、「増えた」204人(22.3%)、「健康への注意」は、「注意を払わなくなった」80人(8.8%)、「注意を払うようになった」670人(73.4%)であった。
なお、HIV陽性判明以降の年数と、ネガティブ・ポジティブな変化との関係を検討したところ、多くの項目で年数が長くなるほどポジティブな変化の回答が増え、ネガティブな変化の回答が減っていた。しかしながら、(2)「人生を乗り越える自信」、(7)「パートナーや家族との絆」、(8)「友人との絆」、(10)「健康への注意」は、年数が経過しても割合に大きな変化は見られなかった。
Sense of Coherence (首尾一貫感覚:SOC)、自己肯定感尺度、心理学的ウェルビーイング
SOCは、ストレス対処・健康保持機能をもつ、人生に対する見方や考え方における特徴的な感覚のことで、この感覚が高いとよりストレスに強く健康になりやすいとされ、ストレス対処力や「生きる力」に近い感覚とされている。このSOCについて、今回参加者の平均得点(標準偏差、以下同様)は51.0(12.9)点であった。なお、一般住民対象の全国代表サンプル調査の結果(14)では、平均得点は59.0(12.2)点であった。
年代別に平均点(標準偏差)をみると、24歳以下(25人)48.3(16.2)点、25~34歳(282人)49.6(11.7)点、35~44歳(416人)50.9(12.8)点、45~54歳(161人)52.4(13.8)点、55歳以上(21人)62.3(13.2)点であった。なお、全国代表サンプル調査の結果では、25~34歳54.6(11.7)点、35~44歳56.7(11.6)点、45~54歳57.2(11.3)点、55~64歳61.7(11.8)点であった。比較をして図示したものを図8-3に示す。
自己肯定感尺度は、自己肯定の感覚を把握するための尺度(ものさし)で、4つの下位感覚から成り立つとされている。一つは「自律」で、社会的な合意を得られるような事柄に対する態度、一つは「自信」で、個としての行為に対する強さ、一つは「信頼」で、家族や周囲との人間関係に対しての親和性、一つは「過去受容」で、過ぎてしまった事柄に対する受容的な態度、である(15)。今回の調査では、これらのうち「自律」「過去受容」の2つを扱った。その結果、平均得点(標準偏差)は、「自律」20.8(4.0)点、「過去受容」13.2(4.5)点であった。なお、様々な年齢層を対象とした先行研究(16)では、「自律」22.0 (3.7)点、「過去受容」14.4 (4.3)点であった。また年齢層別の比較の結果を図8-4に示した。
心理学的ウェルビーイング尺度は、心理学者Ryffによって作成された人生全般にわたってのポジティブな心理的状態を捉えるもので、「人格的成長」「人生における目的」「自律性」「環境制御力」「自己受容」「積極的な他者関係」の6つ下位概念からなる。今回は「人格的成長」「人生における目的」「積極的な他者関係」の3つを扱った。その結果、平均項目得点(標準偏差)は、「人格的成長」4.4 (1.1)点、「人生における目的」3.4(1.3)点、「積極的他者関係」は3.8(1.0)点であった。成人有職女性を対象とした先行研究(17)では、25歳~34歳の場合、「人格的成長」4.9 (0.6)点、「人生における目的」4.2 (1.0)点、「積極的な他者関係」4.3 (0.7)点、35~44歳では、「人格的成長」4.9 (0.7)点、「人生における目的」4.6 (0.7)点、「積極的な他者関係」4.3 (0.6)点であった。
(11) 大脳神経系における生理学的な変調・異常というような定義づけがされる状態
(12) 今回の得点分布では、全体的にどの程度平均値からばらついているのかを表す数字。文中には英語の頭文字SD(standard deviation)や、±の記号で示されることが多い。
(13) 八田宏之、東あかね、八城博子、他.Hospital Anxiety and Depression Scale日本語版の信頼性と妥当性の検討.心身医学, 1998: 38, 309-315.
(14) 戸ヶ里泰典、山崎喜比古、中山和弘、他.国民代表サンプルによる13項目7件法sense of coherenceスケール日本語版の標準化に関する研究(第1報).第23回日本健康教育学会抄録集, 2014.
(15) 樋口善之、松浦堅長.新たに作成した自己肯定感尺度の妥当性と信頼性に関する研究.母性衛生, 2002: 43, 500-504.
(16) 樋口善之、松浦堅長、宮田久枝.自己肯定感尺度の妥当性の再検討と各領域得点に関する報告.第46回日本母性衛生学会報告資料、2005.
(17) 西田裕紀子.成人女性の多様なライフスタイルと心理的well-beingに関する研究. 教育心理学研究, 2000: 48, 433-443.